女化神社

神社
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女化神社(おなばけじんじゃ)は、茨城県龍ケ崎市の飛地にある神社です。食物を司る保食命(うけもちのみこと)を祀るため「女化稲荷神社」とも呼ばれます。猟師が射ようとしたキツネを救った男のもとに、女に化けたキツネが嫁して恩返しをした伝説から、この特徴的な地名が生まれました。江戸時代には大規模な「牛久助郷一揆」の拠点になったことでも知られます。

旅行先の地図

旅行先の概要

御祭神 保食命(うけもちのみこと)
所在地 茨城県龍ケ崎市馴馬町5387
交通 首都圏中央連絡自動車道「牛久阿見IC」から車で約10分
拝観料 無料
駐車場 境内に砕石が敷かれた無料駐車場あり。境内裏手の「カラオケ一休み」脇から進入。
URL
連絡先 女化神社 029-872-2237

歴史・由来

女化神社(おなばけじんじゃ)は、茨城県龍ケ崎市にある神社で、食物を司る保食命(うけもちのみこと)を祀るため「女化稲荷神社」とも呼ばれます。

境内地は牛久市に囲まれた飛び地にあたりますが、明治時代の神仏分離以前は常陸国河内郡馴馬村(龍ケ崎市)の来迎院が別当寺となっていたことから、その名残りで現在の行政区画上は龍ケ崎市となっています。

女化神社の創建は室町時代の永正6年(1509)といわれていますが、この「女化」という特徴的な地名に関連して、キツネの恩返しにまつわる伝説があり、江戸時代に医師の赤松宗旦が著した地誌『利根川図志』などにも残されています。

常陸国河内郡根本村(今の茨城県稲敷市)に貧乏ながら親孝行の農夫・忠七(または忠五郎)がおり、土浦の町で薬を買って帰る途中、根本が原で眠っているキツネを弓で射ようとしている猟師に出くわします。

忠七は憐れに思い、わざと大きな咳払いをしてキツネを起こして猟師の手から逃したため、怒った猟師から銭200文を巻き上げられてしまいます。

その日の暮れ、奥州から鎌倉に向かう男女が忠七宅を訪れたため、一夜の宿を貸したところ、翌朝には男が旅費を持ち逃げし、若い女だけが取り残されていました。

話を聞くと女は没落した名家の娘、男はその譜代の家来であり、寄る辺を失った女はそのまま忠七の家にとどまり、やがて忠七と結婚してお鶴・亀松・竹松という3人の子供を授かります。

ところが女はキツネの正体が露見するのを恐れ、「みどり子に 母ハと問ハヽ 女化の 原になくなく 臥と答へよ」という句を三男・竹松の帯に結わえつけ、泣く泣く根本が原の古塚に消え、以後は行方知れずになったといいます。

忠七に養育された竹松は成長して京都で立身出世を遂げますが、その孫(または子の千代松とされる)はふるさと恋しさに関東に下向し、途中信州の山奥で道に迷って異人(天狗か仙人)に助けられ、異人のもとで天文地理や軍学をマスターすると、17歳で常陸国を訪れます。

そこで牛久城主・岡見氏の家臣だった栗林左京にその能力を見出だされ、その娘婿となって栗林下総守義長を名乗り、「関東の孔明」とも称される智将として活躍したといいます。

この伝説がもとになって、根本が原は以後は「女化の原」と呼ばれ、女化神社が祀られるようになったといわれています。

また、この女化神社は、江戸後期の文化元年(1804)10月に発生した「牛久助郷一揆」の拠点となった場所としても知られています。

この一揆は水戸街道牛久宿(茨城県牛久市)の維持のために必要となる人馬を農村から強制徴収する、いわゆる助郷(すけごう)に反対するために周辺地域の農民が立ち上がったもので、一説によれば女化原に集合した農民の数は6千人あまりといわれています。

牛久助郷一揆では小池村勇七(稲敷郡阿見町)らが頭取となり、牛久宿問屋の麻屋治左衛門の屋敷などを打ちこわしますが、この地域は仙台藩領などの飛び地や旗本領が入り組んでいて取り締まりが難しく、幕府の命令で佐倉藩などが農民鎮圧のために出兵しています。

小池村勇七には一揆の首謀者として獄門の判決が下されていますが、すでに判決が下るころには過酷な取り調べの末に牢死しており、その後は一揆の際に襲われた麻屋治左衛門が街道筋に道標を兼ねた供養塔(牛久助郷道標)を建立しています。

女化神社では毎年旧暦2月の最初の午の日(通常は現在の3月にあたる)が「初午」、2回目の午の日が「二の午」の祭礼となっており、境内では植木や刃物、木工品などを売る市が開かれるほか、参道沿いにも大判焼きやりんご飴、たこ焼きなどを扱う屋台が並び、大勢の人でにぎわいます。

車椅子で旅行するポイント

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【1】女化神社の正面からの参道。社号標の先にはさらに鳥居が並ぶ参道が続いている。

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【2】中央に石畳の歩道、その脇に砕石を敷いた車道が並行し、自動車でも社殿近くまで行ける。

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【3】境内裏のカラオケ店付近から砕石を敷いた駐車場に入ると、ここから別の鳥居をくぐって社殿にまで行ける。

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【4】女化神社社殿。手前まで石畳の参道が延びており、賽銭箱の位置は2段ほど高い。




女化神社境内図

境内配置図 [凡例]
社殿 手水舎 授与所 社務所 トイレ 参道鳥居群 鳥居 社号標 駐車場看板 カラオケ一休み 民家 茨城県道48号土浦竜ヶ崎線 女化神社奥の院(お穴さま) 


移動のしやすさ ★★★★☆
バリアフリーの状況 女化神社の境内には砕石が敷かれた道路が縦横に走っているので、社殿のごく近くまで自動車で移動することができる。駐車場は境内裏手の「カラオケ一休み」脇に入口がある。なお、境内北側参道の延長上400メートルほど先には、母狐が身を隠した場所とされる奥の院、通称「お穴さま」がある。

周辺の名所・観光スポット

牛久シャトー

牛久シャトーは、三河出身の実業家・神谷伝兵衛が明治36年(1903)に開設したワイン醸造場。当時は周辺の土地を開墾の上で「神谷葡萄園」を併設し、原料栽培から製造までの一貫した工程を担うことができる本格的な施設だった。明治時代のレンガ造りの事務室(現・本館)、醗酵室(神谷傳兵衛記念館)、貯蔵庫(レストランキャノン)が現存しており、いずれも国の重要文化財に指定されている。現在は6万平米の敷地内にレストランやショップ、展示施設などを置いている。
【身障者用トイレ・スロープあり】

■参考リンク:牛久シャトー