樺崎八幡宮は、栃木県足利市の国宝・鑁阿寺の開基である足利義兼が創建した法界寺が起源で、生入定をこの地で果たしたという義兼と勧請した八幡神とを合わせ祀った神社です。明治の廃仏毀釈で八幡宮だけが残り、旧寺域では浄土庭園などの発掘調査が進められています。
旅行先の地図
旅行先の概要
御祭神 | 誉田別命、足利義兼公 |
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所在地 | 栃木県足利市樺崎町1723 |
交通 | JR両毛線「足利駅」からタクシーで約15分。 北関東自動車道「足利IC」から車で約5分。 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 参道鳥居前に砕石敷の無料駐車場あり |
URL | 足利市>史跡樺崎寺跡【参考】 |
連絡先 | (無住の神社のため通常の連絡先は氏子総代の個人宅となる) 【参考】足利市文化課文化財保護・世界遺産推進担当 0284-20-2230 足利市観光協会 0284-43-3000 |
歴史・由来
樺崎八幡宮は、栃木県足利市北部、北関東自動車道の足利インターチェンジに程近い八幡山の山腹に鎮座する神社です。
鑁阿寺(ばんなじ)に巻子本として伝わる『鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第』(刊本は『栃木県史史料編・中世一』)によれば、足利氏第2代当主の鎌倉御家人で国宝・鑁阿寺の開基でもある足利義兼が、奥州藤原氏征伐の戦勝を祈念し、文治5年(1189)に伊豆走湯山の理真上人を招聘のうえ土地を寄進して創建された「法界寺」(樺崎寺)が起源となっています。
同じく足利義兼が創建し、現在その建物が国宝の指定を受けている鑁阿寺の本堂「大御堂」に対して法界寺を「下御堂」と呼んで奥の院になぞらえたとされており、義兼自身、晩年は念仏を唱えながらここに閑居し、正治元年(1199)に死去しました。生き入定を遂げたともいわれています。
義兼の没後、子の足利義氏はここを義兼の廟所とし、八幡神を勧請して合わせ祀ったといい、建物に丹を塗ったことから当時は「赤御堂」と呼ばれていました。
鎌倉時代には足利氏の菩提寺として諸堂塔が次々に建立され、室町時代にも鎌倉公方が参詣するなどして隆盛しましたが、戦国時代にかけて足利氏が勢力を失うとともに寺勢は衰えてゆきます。
現在の本殿は天和年間(1681~1684)の再建で、桁行2間、梁間2間、春日造り、建物全体が極彩色で塗られており、江戸初期の神社建築の特徴をよく残しています。
なお、この本殿の敷地に足利義兼の墳墓があるとされ、本殿床下には「足利義兼公御廟」と記した木柱が建っています。
明治時代に入ると廃仏毀釈により法界寺は廃寺となり、樺崎八幡宮のみが存続しましたが、かつての寺宝の一部は光得寺に移され、なかでも像高約30センチメートルの厨子入木造大日如来坐像は、前出の縁起にも記された金剛界曼荼羅の三十七尊を小型の仏像として表現した精巧なもので、国の重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。
また、一帯は昭和59年(1984)から発掘調査が行われ、神社鎮座地の下にあたる浄土庭園跡からは柿経(こけらきょう)など祈願に用いられたとみられる遺物が出土しており、寺域は東西約200メートル、南北約300メートルほどの広さがあったと推定されています。
神社のある高台からも足利家累代の供養塔としての五輪塔群を覆う足利家廟所跡、多宝塔跡などが発見されており、平成13年(2001)に国史跡の指定を受け、これから順次修景復元される予定です。
これらの遺跡をもとに、地元自治体では世界遺産候補地として登録しようとする動きがあります。
車椅子で旅行するポイント
本殿 拝殿 神楽殿 菅公廟 足利家廟所跡 供養塔覆屋跡 多宝塔跡 手水舎 鳥居 浄土庭園跡 樺崎集落集会センター トイレ 北の郷農産物直売所 北関東自動車道 国道293号 足利インターチェンジ |
移動のしやすさ ★★★☆☆
バリアフリーの状況 樺崎八幡宮の正面は石段だが、向かって右手の菅公廟あたりから車1台幅の砕石が敷かれた車道が境内拝殿前まで通じているのでこちらから登る。身障者用トイレは500メートル南側の北の郷農産物直売所か、国道293号沿いの樺崎パーキング(そば処照路庵の隣)を利用できる。
周辺の名所・観光スポット
あしかがフラワーパーク
樹齢140年の大藤を擁する花のテーマパークで、種類豊富な藤のほかにチューリップ、バラ、花菖蒲、セージなど四季の花々が楽しめる。黄金週間には「大藤まつり」が開催されるほか、冬季の夜間ライトアップも見応えがある。
【苑内はほぼ平坦。身障者トイレ、車椅子貸出あり】
■参考リンク:あしかがフラワーパーク